イタリア旅行記 その②(ミラノⅠ)
平成14年(2002年)8月9日~16日
(記録)令和5年(2023年)3月
追記:令和6年(2024年)1月
追記2:令和6年(2024年)3月
takachan
(10日)ミラノの空は「白い空」(いつも曇っている)と言うそうだ。たしかに今日も曇り空。今日の現地ガイドは二人、そのうちお腹の大きいイタリア人が説明役のサラさん。イタリアではガイドは二人が原則とのこと。サラさんは日本語ペラペラということだが、もう一人通訳がつく。これはイタリア人の職の確保策ということだそうだ。
ミラノは人口130万人。経済都市、そしてファッションの街。イタリアでは北部の人が働き、南部の人がそれを食べてしまう・・・という言われ方をしているのだとか。
イタリアで人気のスポーツと言えばサッカーだが、メジャーなのはACミランとインテルのミラノ勢。ここへきてようやく南のローマ(ASローマ)も勝てるようになってきた、というような言われ方をするそうだ。ASローマでは日本の中田英寿が活躍中、中田の貢献も大ということだ。
最初の訪問先は、レオナルド・ダ・ヴィンチの壁画:「最後の晩餐」で有名なサンタ・マリア・デラ・グラッツエ教会。入口にいた傘売り「カーサカサ、センエン、・・・」の男を無視して中へ。巨匠ダ・ヴィンチの原画を目の当たりにする。
壁画というものは、外へ持ち出すことができず、その現地でしか目にすることができないという宿命をおびている。薄暗い空間の中にまさしくその「本物」が存在感を放っている。
教会の外はトラムの走る静かな住宅街だ。水場のある路地のさきに、一軒だけ開いているお土産物屋があり中に入る。「テヅクリダヨ」と日本語で話しかけられる、・・・
つづいてカステル・フランチェスコへ。ツタのからまる古城の城壁と空堀。わきにあるのは石の砲弾だろうか。レンガ壁の穴は、足場にした穴とのこと。
その後ツアーはミラノのDFS(デューティーフリー)に寄る。ヴェネツィアングラス(高価なのは赤だそう)、カメオなど・・・ここではわれわれはJUST LOOKINGにとどめる。
中心街へもどって、ドゥオーモ(ミラノ大聖堂)へ。大聖堂は年がら年中修復中とのことで、今は正面を修復中のため残念な外観だ。しかし内部はさすが、圧倒される空間。美しいステンドグラスの光がさしこむ、荘厳な大空間だ。ゴシック建築のこの教会は、上へ上へと伸びる塔のトンガリが特徴。歴史の重みを感じさせる。
教会前の広場から、エマニュエル二世アーケードをぬけてスカラ座へ向かう。このアーケードにならぶプラダほかのブランドショップがファッションの街ミラノの中心だ。
*NHK文化センター町田 講座(2024.1.23、3.12) 「北イタリアの教会堂」玉川大学教授小倉康之氏〜
ルネッサンスを代表するレオナルド・ダ・ヴィンチの壁画「最後の晩餐」で有名なサンタ・マリア・デラ・グラッツエ教会、その一方でミラノ大聖堂をみるとそれは上へ上へと伸びる135本の尖塔を持ったイタリアでは異例のいわゆるゴシック様式の建築である。 このように様々な様式が混在するミラノの美術・建築の特色がなぜもたらされたのか?その答えはミラノがたどってきた歴史のなかにある。
北イタリアのロンバルディア州にあるミラノは現在でこそイタリアの一部となっているが、その昔BC(紀元前)6~4世紀のミラノはケルト人の町として建設された歴史を持つ。その後BC3世紀にローマ人による征服、AD5世紀にはゲルマン系のフン族の侵入、AD6世紀の同じくゲルマン系のランゴバルト族による占拠・・・といった変遷をたどる。
こうした背景からミラノのある北イタリアではケルト~ゲルマンに特徴的な「自然崇拝」に基づく抽象的装飾美術を伴った初期ロマネスク様式~ゴシック様式という流れが存在した。(ミラノ大聖堂は16世紀に未完成のまま献堂されたが、1813年になってナポレオンの命によって完成した。その際135基のピナクル(尖塔)、軒先のレース状胸壁が追加された)これに対しイタリアの中央部にあるローマやフィレンツェのあるトスカーナ地方では、ギリシャ、ローマを起源とする「人体美」への賛歌「人物中心」の写実的美術の流れの中からルネッサンス美術が花咲いていくのである。・・・・・
話は変わるが、ミラノはファッションの街としても有名だ。ミラノ・コレクションに対抗するものと言えばフランスのパリ・コレクションであろう。一方、ローマ・コレクションなるものは?聞くことがない。 ミラノとパリが、ローマとは異なる芸術・美術的背景を持つと考えると興味深いものがある。
ここで北イタリア出身の歌手、ジリオラ・チンクエッティの曲を、、、(ミラノがあるロンバルディア州の東隣、ヴェネット州の州都ヴェローナ出身)
つづく、次回その③(ミラノⅡ)